勝瑞城
別名 阿波屋形 下屋形 |
付近住所 徳島県板野郡藍住町勝瑞字東勝地176 | 現在 見性寺 |
2007/11/14 | 碑・案内板アリ | 日本城郭大系 |
細川氏→ 三好氏→ 十河氏 |
板野郡井隈荘は承久の乱(1221)のとき阿波国守護となった小笠原氏は、この地に守護所を設け、阿波一国の軍事・警察の任に当たった。南北朝内乱に細川家の三代守護詮春は、守護所を秋月城(土成町)からここに移し、勝瑞城と称した。歴代守護細川氏は京都の管領家を支援し、たびたびこの城から大軍を畿内に送って活躍した。また城下に50ほどの寺院があるなど、四国最大の守護町が形成され、大いに賑わった。 天文21年(1552)守護の細川持隆は、執事の三好義賢と対立して謀殺され、その後は戦国大名三好氏の居城として栄えた。天正10年(1582)に阿波へ侵攻した土佐の長宗我部元親との間に攻防がくりひろげられ、城主十河存保は敗れて讃岐に退去した。当地に三好三代の墓もある。 天正13年(1585)に入部した蜂須賀家政は、徳島城の早期築城をすすめるため廃城となった勝瑞城から石材や建造物の一部を持ち去ったという。 城跡は旧本丸の部分といわれ、今は三好家の菩提寺である見性寺が下剋上の舞台竜音寺を吸収し、その境内となっている。 中世城郭は、山城が圧倒的に多中で、中富川の水運を利用した平城の勝瑞城は、全国的に貴重な城郭として注目されている。なお見性寺に伝わる三好長輝と長基の画像も県有形文化財に、また徳島藩の儒員で四国正学といわれた那波魯堂の撰になる勝瑞義家碑は町の参考資料に選定されている。 勝瑞城館跡 勝瑞城は室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。15世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月城から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。 天文22年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を奪った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。 勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。本丸跡の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。 天正10年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。8月28日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが9月21日、讃岐へ退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。 その後、天正13年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。 当地は16世紀末に築かれた詰の城で、館跡とともに平成13年1月29日に国史跡に指定された。城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。境内には之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絹糸着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は徳島県の有形文化財に指定されている。 |